三洋電機 最後のヒット商品「ゴパン」の全て (1/2)

2013年3月22日金曜日

コラム

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2011年4月1日をもって、三洋電機はパナソニックの完全子会社となり、「SANYO」ブランドは消滅した。私は2006年に三洋電機に入社し、万年赤字会社という逆境を楽しみながら、「会社の復活」という想いを糧に働き、現在7年目である。

その7年間の中で一番印象的だった商品が「ゴパン(GOPAN)」だ。

ゴパン(GOPAN)の写真

当時私は広報部門におり、まだ商品名も商品の色も決まっていない段階から企画に関わらせてもらい、予想外の大ヒットからパナソニックへの事業移管まで携わることができた。

今でも覚えている、一番最初に食べたゴパンの味。醤油や「ごはんですよ!」をつけて食べる新鮮な感覚。ゴパンは家電業界で起きた一つのイノベーションだった。

ゴパンに携わった1人の担当者として、中の人の視点で見た「SANYO」ブランド最後のヒット商品「ゴパン」の歴史をまとめてみたい。



~ お米から米粉を作りたい!(00年-08年) ~

話は遡ること2000年、その頃から市場に米粉が流通し始める。もちろんまだ業務用がメインで流通量は少なかった。その翌年の01年、ホームベーカリーでパナソニックに遅れをとっている三洋電機は、新しい市場として米粉の可能性を感じ、米粉を使ったホームベーカリーの研究を開始する。

03年10月、ついに業界初の米粉ベーカリーを発売するも、売れ行きは不発に終わる。お客様からは「米粉が高い」「米粉が手に入らない」などの厳しい意見をいただくことに。厳しい評価を受けて社内の企画会議では、米粉からパンを作るのではなく、「お米から」直接パンを作れないか?というアイデアが出る。そこからお米を米粉にする研究を開始。

しかし、お米は非常に硬く、小麦粉のような細かい粒度の米粉になかなかならない。ある時はミキサーの刃をセラミック製にして砕いてみたり、またある時は石臼のような装置を試してみたり、数多くの試行錯誤を行う。当時の技術者は、出来たパンを食べたら欠けたセラミックの刃が入っていて、ジャリジャリした時もあったと語っていた。なかなかお客様にお届けできるような技術を確立できず、時間だけが過ぎていく。

石臼装置の写真

それでも米パンに対する可能性を信じ、流通している米粉を使った商品では、05年に業界初の小麦成分ゼロ米粉ベーカリーを発売。07年には米粉ベーカリーだけで2機種展開にするなど、積極的に市場に提案していった。



~ 米粉にしない!逆転の発想(08年-10年1月) ~

アイデアから5年間が経っても手軽に米粉に出来ないなかで、ある炊飯器の技術者が登場する。その人はテレビで「お米の神様」と言われた人で、お米の形だけで産地を言い当てることが出来るほど、お米に精通した人だ。その技術者の名前は「下澤理如氏」である。

下澤理如さんの写真

下澤さんは定期的な企画会議で、米粉に出来ないという報告は聞いていた。頭の片隅で米粉を意識していた08年7月の朝、寝床で目が覚めた時、米粉にせず「炊飯器のようにお米を水に浸して柔らかくしてから、ペースト状にする」アイデアを思い付く。今までは固いお米を米粉にすることに必死だったが、パンを作る際に必要な水を使ってペースト状にするという逆転の発想だった。すぐに自宅に作っている実験室で何度も試してみると、なんと美味しいパンが出来上がった。

下澤さんはベーカリーチームに出来上がったパンを食べさせてみる。本当に米パンが出来た瞬間だ。すぐに開発の方向が「米ペースト製法」に切り替わり、開発が前進し始める。

米パン市場の広がりを強く信じる開発リーダーは、お米をペースト状にするのに必要な高回転のモーターにノウハウがある、掃除機等の開発部門に共同開発を依頼。縦割り組織を乗り越えた大きなプロジェクトとして動いていく。下澤さんの発見から3ヶ月後の08年10月の頃だ。

09年12月、初めての試作機が完成。商品化の目処が立ったことで、通常の商品ではあり得ないが、商品の仕様が定まる前に広報・宣伝・渉外など本社機能を巻き込んだ全社プロジェクトを立ち上げる。私はこの時ににはじめてゴパンに接触したのだ。



第2回へ続く

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